すずめの言流

アラフォー独女の日記です。

涙ぽろぽろ

涙は流してもよいのだ、とつい最近思えるようになったのだ。こっそりとはらはら流せば、たいていのことは何とかなる。鼻をすするふりをして目が赤くても大丈夫だ。みな、案外と泣いているのだ。それだのに、「大人は泣くものではない」と思っていた。

でも、年をとると涙もろくなるんだそうだ。

何か涙を促進するような脳内物質のようなものが出てきやすくなるのか、涙を抑制するような脳内物質みたいなものが出にくくなるのか。どっちでもいいけど、理性が衰えてくるのかなぁ、等とぼんやり思っている。

人の感情とはまことに理不尽だ。だからきっと楽しいし理性の働く余地がたくさんあるんだろうし、それを育成する場が長期にわたるのだ。

 

最近わたしは泣くことが増えた。

俳句の楽しさを教えてくれた親しい方が亡くなった。

本を読んだ。

近所の家猫の世話をしに行って、その猫が玄関と部屋を隔てる破れ障子のところに顔をのぞかせて、じっと玄関の外を見ていることに気づいた。

映画を見た。

短歌を読んで作者の事を想像した。

子どもの頃からお世話になった親戚のお姉さんに、癌の転移が見つかった。

テレビドラマを見た。

泣いてばっかりだ。

 

どこかで「泣くな!」と言われているような気がする。だから、たまにふと、ではどうすればよいのだ、とつい答えを求めそうになる。けれども、それを防ぐかのように、涙は突然落ちてくる。わたしの涙と排尿は突然で、あんまり突然なので全然心の準備が無駄である。もうそういうものだと思っているので、悠々と突然に備えていない。そういうことなのだ。猫がたくさん眠るように、犬が飼い主に序列をつけるように、当たり前のこととしてあれば、焦ることはない。

「泣くな!」というのは行為の禁止であると同時に、なぜ涙を流すようなことをしたのかおまえが悪い、という指摘も含意されているイメージが拭えない。そういうエピソードをわたしがもっているのかと振り返ると、やはりそうだった。

たとえば、母からの「泣くな!」。

これはよくあった。これを言われると、泣くのをとめようとして、でも涙は生理的なものでもあり感情的なものでもあり意志的なものでもあるから、おかしなことになるのであった。何かわたしのしたことが「失敗」あるいは「してはいけない」「大人を面倒がらせる」ような類のことであると、わたしの母はそれをあげつらい、ののしり、ダメな理由をこんこんと述べる。つまり、わたしの行為について否定的な評価のみくだされる。それを聞いているうちに、エネルギーを吸い取られ、それでもそこはかとなく「なぜだめだと言っているかについて大した理由はないらしい」という憶測が生まれ、一方でまた殴られるかもしれない、ビンタされるかもしれないという不安も生まれている。それを当時は整理できないので、ぐちゃぐちゃのままで何か質問されても答えられず、答えられないとたいてい殴られるから、痛みを感じる。さらにぐちゃぐちゃになって、涙が出てくるし、涙を出しておけばよろしい、涙って熱い、等と頭がぼーっとしてくるのである。その辺りで「泣くな!」とくる。じゃあ、泣かせないようにしなさいよ、と大人になったわたしは思っている。

 

もう一つは異性からの「泣くな!」である。

 

喧嘩をするたびに「女はすぐ泣けばいいと思ってるからなあ」と主語を大きくしてくる人がいたのだが、わたしは泣きながら「わたしは女であるが、泣けばいいとは思ってない。感情を整理できなくて涙がそれを助けてくれているのだ。その証拠に、泣きながら話を進めているではないか。理解と感情は別なのだ」と伝えてから、筆談でこれまでの喧嘩の経緯と相手とわたしの関係における問題点を指摘して話を進めると、「なんで泣いてるのにそういうことになるんだよ。泣くな! まず泣くのをやめろよ!」となるのである。わたしがろくでもない異性と交流を行ってきた結果だとは思うが、泣くなんて生理的なものもあるのだから、勝手に泣かせておいても話は進む。

 

感情と理性が別になっているのだ。

いや、一緒だけれども、違うのだ。

 

だからこそ、涙を出すことに意味づけをしたくなるのだろうな。

とにかく何か状況があればそれに応じて涙がでるのだ。

熱ければ汗をかくようなものになったのだ。

わたしの涙はそうやってこぼれていくのだ。

 

食器洗い

小さな頃から苦手なものの一つが食器洗いである。

 

泡をつけてなでただけ、みたいになるときもあれば
力を入れ過ぎてしまって、肩に力が入りっぱなしの時間が続くこともある。


対象物を見て即座に汚れの種類を判断して、
連携させて手首や指先の力の調整をするということが人よりは鈍い。
調整に時間がかかるみたい。
練習すればどうこうってものではないレベルだと思う。
だって、食器洗いなんて人生で腐るほどやってるけど、
ミッションコンプリート!って気分になったことがない。

 

食べ終わるとだんだん嫌な気持ちが湧いてくる。
だから切り替えるのにも時間かかる。

 

小さいころは母が隣でダメ出しをするってことが度々あった。
食器洗いができるようになると、
母はずっと「食べ終わったら食器洗ってよ!」と怒鳴っていた。
担当制にしたけど、誰もやりたがらない。

すっごく嫌だった。
なんでだろう。

子どもたちはみな無言でやらない、という日々が続いたことがあった。
食べさせてもらってることに感謝できなかったんだよね。
なんでかな。

反抗期になると、それは一層壮絶なバトルと化した。

「食べたんだから洗いなさいよ!」

「食べたくてたべたわけじゃない!」

(我ながらひどいと今では思う)

「なにをー!」と言って母はキレて頬をはることもあれば

泣いてしまうこともあれば

酒に酔って管を巻くこともあった。


その当時は、洗うことに意味を見いだせなかったのだ。

最初から「手順だよ」って刷り込まれてればよかったけど、

手順ってことにするには、母の思いもこもりすぎていたのかもしれないね。

 

母も言語化が苦手だったのかもしれない。。

「なんで食器洗わないといけないの?」ってしつこく聞いてくる娘に
何言っても無駄って思ったかもしれない。

 

ある日を境に、高校か大学か中学か忘れてしまったけど、
母が絶対に食器を洗わせないという方法をとった。
そうすると、不思議と洗わないといけないんじゃないかと思うようになった。
ほんと不思議。
「食器洗ってよ!」の怒鳴り方よりも
「お前は食器を洗うな!」という禁止の怒鳴り方のほうが大変に迫力があった。

自由がない、選択肢がない、ということを今ならこのエピソードに接続できる気がする。
選択肢を与えないコントロールをずっと受けると、
人はバカになる。

あるいは、母自体に、選択肢がなかったのかもしれない。

 

反抗期までは盲目的に母の言われた通りにロボットのように生活してて

それが取れ始めたころのわたしの荒れっぷりといったら

発達段階においては正常かもしれないけど

知識があってもなくても親は疲弊するだろうね。

わたしは人の言うことを聞かずに言いたいだけを言うって感じで

まあメンヘラって呼ばれてもおかしくないようなタイプになってしまったからであろう。

 

今なら、母の作る食事とわたしの相性がよくないとわかっているから、

感謝はしないけど仕事の一部として食器は洗える。

 

ああ、食器洗いは大嫌いだ。

母のことも記憶的にダメージが大きいのかもしれないが
とりあえず、自分のやり方を考えることがよいだろう。

これについては
たまたまテレビを見ていたら、
将棋の話題がでていたので思い出したのだ。

親子で棋士になることは非常に少ないそうだ。
確かに少ない。
知ってる限り、伊藤先生とその娘さんくらいしか記憶にない。
勝負の世界だから、才能が受け継がれるものではないこともあるだろうし、
親が口出しすると自由にできない、と中村大地五段は言っていた。
これはわかるなぁ。
うまく口出すって、専門家でも下手な人がいるくらいだものね。


そのせいかどうかはわからないけれども
うつっぽくなると台所の食器がたまりまくっていることがあった。
流しの食器類は元気のバロメーターかもしれない。

一人だと毎回洗うのも面倒で、ついそのままにしてしまっていたけど、
多分そういうときはメンタルエネルギーチャージが必要なんだろうね。
何かあると思うことにして、振り返る必要がある。
今日はたまたま思いついたけど、それも今日は元気の出るようにマッサージ受けてきたからだ。
そういうもんだ。


まず、少しでも洗いやすくする環境設定について。
洗剤は20代後半からお皿に食器洗剤の味がするのと、環境のことを考えて
重曹を利用することにしている。
しばらく変わることはないだろう。
石けんも使ってたけど、排水溝が異様に汚れるのでやめた。
合成洗剤が楽なんだけど、ゆすいでも熱湯かけて消毒みたいにするまで洗わないと味がするから
熱湯コストを考えて止めた。
油汚れとかはまず新聞紙とかで拭っておいて、重曹でこすって、お湯で流すと落ちる。
プラスチックも問題ない。

スポンジは人からいただいたアクリルたわしである。
今のは分厚くて使いづらいかもしれない。
手のひらに収まるくらいで、食器の形状が把握しやすいものに変えてみることにする。
ここだね。
アクリルたわしである必要もないかもしれないし、あるかもしれない。
形状と汚れ落ち具合はもう少し追求してよいだろう。

食器については
持ちやすさや重さや見栄えが洗いやすさより勝る。
順番で言うと
・見てたのしい
・触れておちつく
・洗いやすい
かな。だから増えることはあるだろうけど、減ることはないから調整はしない。
今だってほしい食器あるもんな。
でも、タッパーは統一する方向で。

そして洗い方。
手順をさらう。
1.洗う前の汚れ落とし(油ものは新聞紙等でふきとる、とれるくずはとっておく)
2.重曹をふりかける。スポンジに重曹をつける。
3.大きなものから洗う
4.油ものは最後に洗う
5.ごみをとる
6.ごみいれを洗う
7.流しを専用のスポンジで洗う
8.湿度60%以上のときは流しを吹きあげる

陶器とプラスチックはこれでよい。
漆器はいつのタイミングにするのだ?
猫の食器はどうするのだ?
手順を考えよう。

1.猫の食事の支度
2.人の食事の支度
3.食器洗い
となるわけだから。
食器洗いの順番はこうか。

1.猫の食器(流しの別のところに置いてある)洗い(専用のもので対応)
2.人の食器(汚れ落とし→漆器(濡らしてから別なもので対応)→陶器・プラスティック→油もの)
3.ごみの処理
4.流しの処理

おお。
もっとこういうのは手順書作ってよいかもしれない。
今のわたしに必要なのは、言語化することだ。
順序を見直して、ロスを減らすための手順を決める。
もっと日常のリアルを言語化していくと、ちょっとは考えることにつながるかもしれない。

 

これも継続すればなれるはずだろう。
これまでがどれだけ何も考えてなかったか、
あるいは人と話すことがなかったことだ。
こういうのって、他の人は誰と話すんだろう。
どうやって合理的かどうかを決めていくのだろうか。
今頃こんなこと思うなんて、あほだな。

 

 

久々の地震に

猫がびっくりしてうなった。

スマホの警報が鳴らなかったから動揺してしまったが、こちらは大きな地震ではなかった。しかし、体が腑抜けになっていたのか全然感知していない。

猫は抱っこして脇の下に手をいれて揺らすようにしたら、落ち着いた。

そうね、君たちは地震が初めてかもしれない。わたしは備えております。大丈夫です。

 

最近やばいと思ったことがある。

それは長文を書かなくなってきたことだ。だから、流れも作れなくなっていて、ぼやっと脳みそが拡散されたようになっている。すぐ疲れて寝てしまう。

もともと考えられるようなタイプではないのだけれども、輪をかけて頭が悪くなっている。これは加齢の問題として片付けるわけにはいかないね。習慣をなくしてしまったことが問題だと思うから、長文を書こうと思ってブログを立ち上げたけれど、400字が遠い。

昔から、話が回りくどくて何を言っているのかわからないとか言われてきた。話し言葉よりも書き言葉の方に親和性が高かったから、小難しいことばっかり言うんだから、と言われてきた。それに、ちょっと前までは、何千字という文章を書いていた。

そういうことにかかわらず、何かを失う時間は圧倒的に早くなっている。いまでも、500字程度の文章を月に30本程度書くのだけれども、それも内容が決まっていて、最近はテンプレ程度の文章になっているので、どんどん劣化しているような気がするから、そこはかとなく焦りを抱いていた。こういうのが老いかと思って、なるがままに受け容れようと思おうとしたけれども、全力で止めるほうがいいんじゃないかと思った。

というのも、読める本もあっさりしてきてしまうからだ。エンタ系のベストセラーは昔からすぐに読めてしまうけれど、思考を求められる読書ができにくくなっている。そんなものを読める時間も減ってきたけど、もっと読みたいという気持ちは変わらないし、一層味わえるような本を持っているのに、脳みそがついていかないのは悲しいから。それに、もっと読みたい本が出てくると思って生きてるのに、それに応じる体力のようなものが失われているような気がするから、とりあえずできることをやろうとしている。

それに、対話していると、ぽんぽん浮かぶものもあるんだけれど、それは相手ありきになってしまうので、その前に自分を固めておきたいというか、相手に差し出せる言葉を選べる可能性を多くしておきたいというのもある。加齢してきて、人との関係が豊かになってきたのがメリットだと思うのだけれども、それに反比例するかのように言葉が貧しくなっているのは怠慢だろうから。年を重ねれば重ねるほど、言葉以外の圧倒的な物言いを持った上で、短い言葉で相手に何かを伝えられることもあるだろう。それでも、思考は止めてはいけないと思うのだよね。相手に伝えられる手段は複数持っていた方が良い。

そして、今振り返ってみて、メタコミュニケーションとか、非言語情報とか、そういうものは以前に比べたら豊かになっているのだろうと感じている。けれども、それと言語はつながっていてほしいのだ。そう考えると、書けないというのはわたしの持つ身体性までもが、貧しくなっているのではないかと思うのだ。もともと、わたしは身体と言語がねじれているのだけれども、もしかしたらそのねじれを解消する一助になるかもしれない。

 

まあ、とどのつまりは、「体を動かすようにしようかな」っていうのと、「頭を動かすようにしなさい」ってことだけだ。

こんな簡単なことに行きつくまでも、こんなに時間がかかるようになってしまった。

次に長文を書くとしたら、何かテーマを決めて書いてみようかと思う。

 

鳥雑記―春

最近、鶯がにぎやかだ。

よく耳をすませてみればあの鳴き方をしていない鶯は結構いるものだ。

「ほー、ほけきょ」

というのではなくて

「ほっ ほけっ ほけっ」みたいなやつとか

「ほーほけー」とか……

 

うちの近所は静かなのと、近くに森があるから鳥たちがよくさえずっている。

それでよく聞こえるのだ。

 

同僚に話してみるけれど、

みなあまり鶯の声を聴いていないようであった。

 

ここは季節ごとに鳥たちが訪れる場所で

もちろんカラスは通年存在しているけれど

カラスだって鳴き声が違うのだ。

微妙に波長が違うというか、音が違う。

個性がある。

羽根も栄養状態によるのか、光の加減によるのかわからないけれど、

濡れたように光る黒もあれば

まっすぐに黒い黒もあれば

なんか毛並みが頼りなくて薄く感じられる黒もある。

 

「あら、ちょっときれいな毛並みだから見せてね」という感じで見ている。

向こうは

「変な奴がきたな」って思ってるのかもしれないけれど、カラスですら見分けられるような域に達したのだろうか。

 

昔は全然そんなことなくて、

カラス怖かったのに。

襲われたこともないし

いたずらしたこともないし

でも、ひたすら怖くて仕方なかった。

 

昔は怖いものがたくさんあったんだけど、今は人間くらいしか怖いものはない。

やっぱりそれは昔からそうで、生きてる人間は一番怖い。

 

鳥はその点、人間よりも賢い感じがする種類がたくさんいる。

人間味あふれる鳥もたくさんいる。

人間に擬人化して捉えるしかできないのが残念だ。

 

 

 

はじめまして

おっちょこちょいで失敗と恥の多い人生を送ってきた、視野の狭い、平凡なアラフォー独女の日記です。

 

最近長い文章を書くことが減ってきてしまったので、思考訓練(といってもわたしは書くことに安心を覚えやすいだけで、考えることがうまくないのです)を兼ねて、日記を始めることにしました。

webの世界に、ひっそりと朽ち果てる板塔婆をイメージして書いていきたいと思います。

最初は墨も黒々と乗り、板も新しくきれいな板塔婆ですが、日に当たり、雨が降り、風が吹き付けることで、どんどん新しさが消えていき、墨も薄れていくので供養のごとに換えられていきます。あの板塔婆に書かれている梵字が好きで、いつもお墓参りの度に見入っていた記憶があります。

調べてみると、板塔婆は元々仏塔としての意味を持っていた、とありました。意味が薄れて追善供養のためのものとなっているそうです。

 

35を過ぎて、衰えつつある自分を記録するものが欲しいのかもしれません。

ここでは過去を供養していきましょうかね。

そして現在を見つつ、未来を見えたらいいな。

 

こつこつやるのが苦手なので、まずは継続することが目標です。