すずめの言流

アラフォー独女の日記です。

久々の地震に

猫がびっくりしてうなった。

スマホの警報が鳴らなかったから動揺してしまったが、こちらは大きな地震ではなかった。しかし、体が腑抜けになっていたのか全然感知していない。

猫は抱っこして脇の下に手をいれて揺らすようにしたら、落ち着いた。

そうね、君たちは地震が初めてかもしれない。わたしは備えております。大丈夫です。

 

最近やばいと思ったことがある。

それは長文を書かなくなってきたことだ。だから、流れも作れなくなっていて、ぼやっと脳みそが拡散されたようになっている。すぐ疲れて寝てしまう。

もともと考えられるようなタイプではないのだけれども、輪をかけて頭が悪くなっている。これは加齢の問題として片付けるわけにはいかないね。習慣をなくしてしまったことが問題だと思うから、長文を書こうと思ってブログを立ち上げたけれど、400字が遠い。

昔から、話が回りくどくて何を言っているのかわからないとか言われてきた。話し言葉よりも書き言葉の方に親和性が高かったから、小難しいことばっかり言うんだから、と言われてきた。それに、ちょっと前までは、何千字という文章を書いていた。

そういうことにかかわらず、何かを失う時間は圧倒的に早くなっている。いまでも、500字程度の文章を月に30本程度書くのだけれども、それも内容が決まっていて、最近はテンプレ程度の文章になっているので、どんどん劣化しているような気がするから、そこはかとなく焦りを抱いていた。こういうのが老いかと思って、なるがままに受け容れようと思おうとしたけれども、全力で止めるほうがいいんじゃないかと思った。

というのも、読める本もあっさりしてきてしまうからだ。エンタ系のベストセラーは昔からすぐに読めてしまうけれど、思考を求められる読書ができにくくなっている。そんなものを読める時間も減ってきたけど、もっと読みたいという気持ちは変わらないし、一層味わえるような本を持っているのに、脳みそがついていかないのは悲しいから。それに、もっと読みたい本が出てくると思って生きてるのに、それに応じる体力のようなものが失われているような気がするから、とりあえずできることをやろうとしている。

それに、対話していると、ぽんぽん浮かぶものもあるんだけれど、それは相手ありきになってしまうので、その前に自分を固めておきたいというか、相手に差し出せる言葉を選べる可能性を多くしておきたいというのもある。加齢してきて、人との関係が豊かになってきたのがメリットだと思うのだけれども、それに反比例するかのように言葉が貧しくなっているのは怠慢だろうから。年を重ねれば重ねるほど、言葉以外の圧倒的な物言いを持った上で、短い言葉で相手に何かを伝えられることもあるだろう。それでも、思考は止めてはいけないと思うのだよね。相手に伝えられる手段は複数持っていた方が良い。

そして、今振り返ってみて、メタコミュニケーションとか、非言語情報とか、そういうものは以前に比べたら豊かになっているのだろうと感じている。けれども、それと言語はつながっていてほしいのだ。そう考えると、書けないというのはわたしの持つ身体性までもが、貧しくなっているのではないかと思うのだ。もともと、わたしは身体と言語がねじれているのだけれども、もしかしたらそのねじれを解消する一助になるかもしれない。

 

まあ、とどのつまりは、「体を動かすようにしようかな」っていうのと、「頭を動かすようにしなさい」ってことだけだ。

こんな簡単なことに行きつくまでも、こんなに時間がかかるようになってしまった。

次に長文を書くとしたら、何かテーマを決めて書いてみようかと思う。