すずめの言流

アラフォー独女の日記です。

食器洗い

小さな頃から苦手なものの一つが食器洗いである。

 

泡をつけてなでただけ、みたいになるときもあれば
力を入れ過ぎてしまって、肩に力が入りっぱなしの時間が続くこともある。


対象物を見て即座に汚れの種類を判断して、
連携させて手首や指先の力の調整をするということが人よりは鈍い。
調整に時間がかかるみたい。
練習すればどうこうってものではないレベルだと思う。
だって、食器洗いなんて人生で腐るほどやってるけど、
ミッションコンプリート!って気分になったことがない。

 

食べ終わるとだんだん嫌な気持ちが湧いてくる。
だから切り替えるのにも時間かかる。

 

小さいころは母が隣でダメ出しをするってことが度々あった。
食器洗いができるようになると、
母はずっと「食べ終わったら食器洗ってよ!」と怒鳴っていた。
担当制にしたけど、誰もやりたがらない。

すっごく嫌だった。
なんでだろう。

子どもたちはみな無言でやらない、という日々が続いたことがあった。
食べさせてもらってることに感謝できなかったんだよね。
なんでかな。

反抗期になると、それは一層壮絶なバトルと化した。

「食べたんだから洗いなさいよ!」

「食べたくてたべたわけじゃない!」

(我ながらひどいと今では思う)

「なにをー!」と言って母はキレて頬をはることもあれば

泣いてしまうこともあれば

酒に酔って管を巻くこともあった。


その当時は、洗うことに意味を見いだせなかったのだ。

最初から「手順だよ」って刷り込まれてればよかったけど、

手順ってことにするには、母の思いもこもりすぎていたのかもしれないね。

 

母も言語化が苦手だったのかもしれない。。

「なんで食器洗わないといけないの?」ってしつこく聞いてくる娘に
何言っても無駄って思ったかもしれない。

 

ある日を境に、高校か大学か中学か忘れてしまったけど、
母が絶対に食器を洗わせないという方法をとった。
そうすると、不思議と洗わないといけないんじゃないかと思うようになった。
ほんと不思議。
「食器洗ってよ!」の怒鳴り方よりも
「お前は食器を洗うな!」という禁止の怒鳴り方のほうが大変に迫力があった。

自由がない、選択肢がない、ということを今ならこのエピソードに接続できる気がする。
選択肢を与えないコントロールをずっと受けると、
人はバカになる。

あるいは、母自体に、選択肢がなかったのかもしれない。

 

反抗期までは盲目的に母の言われた通りにロボットのように生活してて

それが取れ始めたころのわたしの荒れっぷりといったら

発達段階においては正常かもしれないけど

知識があってもなくても親は疲弊するだろうね。

わたしは人の言うことを聞かずに言いたいだけを言うって感じで

まあメンヘラって呼ばれてもおかしくないようなタイプになってしまったからであろう。

 

今なら、母の作る食事とわたしの相性がよくないとわかっているから、

感謝はしないけど仕事の一部として食器は洗える。

 

ああ、食器洗いは大嫌いだ。

母のことも記憶的にダメージが大きいのかもしれないが
とりあえず、自分のやり方を考えることがよいだろう。

これについては
たまたまテレビを見ていたら、
将棋の話題がでていたので思い出したのだ。

親子で棋士になることは非常に少ないそうだ。
確かに少ない。
知ってる限り、伊藤先生とその娘さんくらいしか記憶にない。
勝負の世界だから、才能が受け継がれるものではないこともあるだろうし、
親が口出しすると自由にできない、と中村大地五段は言っていた。
これはわかるなぁ。
うまく口出すって、専門家でも下手な人がいるくらいだものね。


そのせいかどうかはわからないけれども
うつっぽくなると台所の食器がたまりまくっていることがあった。
流しの食器類は元気のバロメーターかもしれない。

一人だと毎回洗うのも面倒で、ついそのままにしてしまっていたけど、
多分そういうときはメンタルエネルギーチャージが必要なんだろうね。
何かあると思うことにして、振り返る必要がある。
今日はたまたま思いついたけど、それも今日は元気の出るようにマッサージ受けてきたからだ。
そういうもんだ。


まず、少しでも洗いやすくする環境設定について。
洗剤は20代後半からお皿に食器洗剤の味がするのと、環境のことを考えて
重曹を利用することにしている。
しばらく変わることはないだろう。
石けんも使ってたけど、排水溝が異様に汚れるのでやめた。
合成洗剤が楽なんだけど、ゆすいでも熱湯かけて消毒みたいにするまで洗わないと味がするから
熱湯コストを考えて止めた。
油汚れとかはまず新聞紙とかで拭っておいて、重曹でこすって、お湯で流すと落ちる。
プラスチックも問題ない。

スポンジは人からいただいたアクリルたわしである。
今のは分厚くて使いづらいかもしれない。
手のひらに収まるくらいで、食器の形状が把握しやすいものに変えてみることにする。
ここだね。
アクリルたわしである必要もないかもしれないし、あるかもしれない。
形状と汚れ落ち具合はもう少し追求してよいだろう。

食器については
持ちやすさや重さや見栄えが洗いやすさより勝る。
順番で言うと
・見てたのしい
・触れておちつく
・洗いやすい
かな。だから増えることはあるだろうけど、減ることはないから調整はしない。
今だってほしい食器あるもんな。
でも、タッパーは統一する方向で。

そして洗い方。
手順をさらう。
1.洗う前の汚れ落とし(油ものは新聞紙等でふきとる、とれるくずはとっておく)
2.重曹をふりかける。スポンジに重曹をつける。
3.大きなものから洗う
4.油ものは最後に洗う
5.ごみをとる
6.ごみいれを洗う
7.流しを専用のスポンジで洗う
8.湿度60%以上のときは流しを吹きあげる

陶器とプラスチックはこれでよい。
漆器はいつのタイミングにするのだ?
猫の食器はどうするのだ?
手順を考えよう。

1.猫の食事の支度
2.人の食事の支度
3.食器洗い
となるわけだから。
食器洗いの順番はこうか。

1.猫の食器(流しの別のところに置いてある)洗い(専用のもので対応)
2.人の食器(汚れ落とし→漆器(濡らしてから別なもので対応)→陶器・プラスティック→油もの)
3.ごみの処理
4.流しの処理

おお。
もっとこういうのは手順書作ってよいかもしれない。
今のわたしに必要なのは、言語化することだ。
順序を見直して、ロスを減らすための手順を決める。
もっと日常のリアルを言語化していくと、ちょっとは考えることにつながるかもしれない。

 

これも継続すればなれるはずだろう。
これまでがどれだけ何も考えてなかったか、
あるいは人と話すことがなかったことだ。
こういうのって、他の人は誰と話すんだろう。
どうやって合理的かどうかを決めていくのだろうか。
今頃こんなこと思うなんて、あほだな。